
皆、生まれる。
私は知っている。
だから還るのだ。
あれはとても暑い、暑い日でした。
私は学校から家まで四十分はかかる道のりを友達と二人で帰る途中でした。小学生の子供ですから、道草をしてさらに時間が過ぎていきます。
道路は陽炎が揺らいでおりました。蝉の鳴き声が一層甲高くジリジリと耳に響きます。厚い雲に覆われ陽は陰っているのに蒸し暑く、体に玉の汗が浮かび、背中を滑り落ちていきました。頭に被った帽子はぐっしょりと濡れ、髪の毛が頬に張り付くのが気になって、何度も手で拭いました。
三分の二辺りまで来たところでしょうか。家までは曲がりくねった急な坂道を上らなくてはなりません。
友達と私は、別の道で帰ることにしました。距離にすると遠回りになりますが、あの坂道を上ることに比べたら多少遠くなろうともさして気になりません。
雑木林を横切り、沼の脇を抜けていきます。沼には蓮が淡い黄色と薄紅色の花弁を広げていました。それを眺めながら、小道を歩いていると向こう側に人の姿を見つけました。それが何故目にとまったかといえば、沼の敷地は足下が悪く、小道以外は歩いてはいけないと学校でよくよく注意を受けていたからです。
向こう側にいたのは同じ年頃の男の子でした。ですが、見たことのない顔です。小さな村ですから、同じ学校に通う生徒は大体顔なじみです。知らぬ子がいるとも思えません。不思議に思って友達に聞こうと声をかけようとしたその時です。
男の子が沼に片足を入れたではありませんか!
私は思わずあっと声をあげたと思います。ですが、体はまるで金縛りにあったかのようにぴくりとも動きません。ただ目だけを見開き、その光景を凝視するだけでした。一瞬のような短い時間が、私にはとてつもなく長い時間のように思えました。
男の子は笑っていました。
首まで体が浸かったところで、とても気持ち良さそうに水に体をあずけ、微睡みながら瞼を閉じました。そしてとうとう頭の天辺まで見えなくなると、ただ白い気泡だけが水面に小さく浮かんでいました。それもやがて消えると、沼は何事もなかったかのようにひっそりと静まり返りました。私は汗が目にしみるのも忘れ、まだ水面を見続けていました。
私はこの感覚を知っている・・・
どこからかふっと体に沸いてきました。
このとき、男の子と私は同じ感覚の中にいたのだと思います。ですが、それが何であるのかはっきりと説明することは難しく、やはり感覚の解明には至りませんでした。
友達に男の子の話をしても、見なかったといいます。ですが、そんなはずはありません。私はしっかりと男の子と目を合わし、彼の表情まで見ているのですから。
しかしその出来事から何年も経つと、初めの確信は大きく揺れ、夢だったのではないかと自身の記憶が曖昧になっていきました。それは日々の生活が、少しずつあの日の一件から遠ざかっていったからでしょう。男の子の顔も朧になり、沼が霞み、まるで小説の一場面のように私の頭が作り上げる映像にすり替わったのかもしれません。
私は大人になり、そうしてすっかり思い出すこともなくなりました。
結婚し、人並みに幸せでもありました。
子も授かり、母になる歓びに嬉々としていたものです。日に日に膨れていくおなかを撫でながらまだ顔も見ぬ我が子に話しかけていました。それは楽しいひとときでした。
陣痛が始まり、とうとう出産がやってきました。
激しい痛みに、どうしても息が上がります。それは仕方のないことでしょう。額には汗が浮かび上がり、体もじっとりと寝衣を湿らせます。
真っ白な頭の中で、結婚式の盃を思い出したかと思えば幼少の祖父母の膝枕を思い出したり、まるで走馬灯のように駆け巡っていきました。その中に、あの暑い日の出来事もありました。
笑う男の子。冷たい水。一面の蓮。萌える新緑。
断片的にそれらは交錯し、私の頭の中を駆け巡っていきました。
そしてやっと、産道を通り赤ん坊が産婆の手で取り上げられました。赤ん坊の泣き声が部屋いっぱいに響きわたりました。
産婆は元気な男の子ですよ、と私の胸に抱かせました。私は疲労と安堵で暫し呆然としていたようです。汗ばんだ胸に乗った小さな赤ん坊の顔を見ました。この時の私の驚きと歓びと感情をどう表現したらいいでしょう!
赤ん坊はまさにあの男の子ではありませんか!
私は全てを一瞬で理解しました。
あの沼は羊水なのです。赤ん坊が安心しきって全てをゆだねる母の胎内なのです。
私もあの感覚を知っていると思ったのは、私も同じようにかつて母の胎内で体を丸めて浮かんでいたからに違いありません。居心地のいいあの中。
私は汗で頬に張り付いた髪を払いました。体は消耗し、腕を上げるのも気怠く感じて、少し休みたくなりました。
そうして目を閉じると、男の子が----私の息子が----沼から私を手招きます。
笑いながら私たちは微睡んでいきました。
ああ、皆あそこから生まれ、そして還るのだ。
私も。
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